基本理念

図書館情報学研究室について

2015年3月26日 影浦峡

2017年1月16日補足 影浦峡

図書館情報学研究室の研究テーマは、通常の視点で分類するならば、大きく図書館系と情報系に分かれており、主に図書館系を担う教員と主に情報系を担う教員が1人ずついます。2014年度まで図書館系を中心に研究室を支えてきた根本彰先生が退任します。この機会に、研究室の基本的な方針を改めて確認することにします。

なお、以下に述べることは、根本先生が研究室運営の基本的考え方について述べた文章として公開している「生涯学習社会の方法論的装置としての『図書館』」を置き換えるものではなく、それを補足するものです。また、図書館系と情報系に共通するものです。

1. 対象

図書に代表される、言語で表現され記録されたものを中心に、知識(個別の対象をめぐる思考の結果だけでなく思考の技術とプロセスもこの言葉に含めます)のまとまりとその編成・流通を、研究の対象とします。本研究室においては「情報」系でも基本的な対象は同じです。

2. 学習:事前から事後への移行を可能にする条件

本研究室が教育学部/教育学研究科にあることを不思議に思われる方もいるかもしれません。歴史的な経緯から言えば、それは偶然の産物なのですが、論理的に見るとそれは必然的なことでもあります。

人がおよそものを考えるためには、そして近代以降の社会で個人として自らを確立するためには、学習が必要です。仮に人がすべてすでに学んでしまった存在として生を受けるならば、知識のまとまりはいわば「消費」の対象にすぎず(むしろそれは「情報」と呼ぶべきでしょうか)、知識のまとまりを新たに身につけることは、基盤における考える力は同じままで、その上で何らかのチューニングを施すことにすぎません。

人がものを考えるために学習が必要であるというのは、およそ人がものを考えると呼ぶに足る行為を可能にするために必要な条件が非生得的なレベルで存在し(もちろんそれは生得的な基盤の上にあるものかもしれませんが、人間においては生得的なものの自然的解発のみによりものを考えることが可能になるわけではありません)、それは個々人の外で維持されざるを得ない(あるいは学んでしまった個人の中にあるものであっても外に伝えられなくてはならない)ということです。

少なくとも大まかに「近代」と呼ばれる時代以降、ものを考えるために必要な条件の学習を外在的な存在として特権的に支えていたものは図書であると言ってもそう極端な誤りではない程度に、図書のかたちでまとめられた知識は人の学習を可能にする基盤を、さらに言えばものを考えることを可能にする条件を、支え、伝えてきたと言えます。

本研究室では、図書を代表とする知識のまとまりを、学習を可能にする条件、すなわち、ものを考えることができていない状態からできる状態への人の移行を可能にするものとして捉えることを主な課題としています。したがって、「自分はすでにものを考えることができている」という状況の上に展開される「読書」は、それがそれなりの楽しさや意義を持つことは認めつつも、主なテーマとはなっていません。(もう一方で、言語習得のようなレベルもテーマとはしていません。)

人はほとんどの場合自らできることについてそれができる条件を十分に意識化できていないというよく知られている事実の論理的な帰結として、学習してしまったあとで人が自らの学習を可能にした条件や存在を振り返ったときに挙げられる条件はほとんどの場合みじめなほど不十分なものになりますし、さらには、少なからぬ場合に、思い込みによって条件が捏造されがちです。その捏造に抗して学習を可能にする条件としての記録された知識のまとまりの存在とその様式を明らかにして行くこと、それが本研究室の大きな課題となっています。

3. 言語表現と知識:歴史的に有限の総量

ネットメディアの展開により、少なくとも今現在を見るならば、「言語で表現され記録されたもの」の代表が図書であると言い切るのは必ずしも適切でないかもしれません。

本研究室は、図書館情報学/図書館学の研究室としては世界的に見ても早期から、図書以外の言語表現も扱ってきました。図書というパッケージにおけるまとまりという枠をはずし、またとりわけ電子的に記録された言語表現を考えたときには、自然言語処理を始めとする応用系の計算機科学の研究と(少なくとも表面的には)重なる部分が出てきます(実際、所属教員の一人である影浦は言語処理系の学会でもそれなりに活動しています)。

言語表現に対する本研究室の基本的な捉え方と計算機科学系の自然言語処理(あるいは言語学の研究プログラム)との差異は、次のように言葉にすることができます。

言語の分析が、ある言説の事実に関して問う問いとはつねに、「どのような規則にもとづいて、このような言表がつくられたのか? またしたがって、どのような規則によって他の同じような言表をつくることができるのか?」であるのに対して、言説の記述が立てるのはまったく別の問いであって、「このような言表が出現した、しかも、他のいかなる言表もその代わりに出現しなかったのは、どのようなわけなのか?」という問いなのだ。(M. フーコー「科学の考古学について」(1968年)

図書館情報学が言語表現を前に問う問いは、ここで言われている「言説の記述」と近いものです。このような認識に基づく言語表現の扱いは、まず第一に博物学的な列挙と分類を出発点とします。実際に、図書館はそのようなことをこそ担ってきたのです。さらに列挙と分類にとどまらずにその先に進む場合に、図書館情報学研究室が扱うのは、形式的に許容される潜在的に無限の表現、ではなく、「現実的に存在しうる」表現の範囲とそれが担う役割ということになります。

そして、その現実的に存在しうる表現に対応する基本的な単位が、学習を可能にする「知識」という単位になります。

このような問題設定は、狭い意味での「科学」としては成立しません。従って、例えば、ある種の言語表現のクラスに関する現実的存在可能性の範囲をめぐる予測を可能にする何らかの理屈を確立したとして、それは、例えば天体の運行に関する予測とかあるいは天気の予測を可能にするような理論とも異なる位置づけにあるものになります。次に、人の位置づけを少し見ますが、その際に、この点も少しだけ間接的に考慮することにします。

4. 人:学習前・学習過程と言語表現のまとまり

ネットでは何でも手に入る。基本的に接続できるならば誰もがフェアに情報にアクセスできるので、これまでのような格差は解消され、フェアな競争が展開でき、背景の格差は解消されるだろう。

どちらかというと進歩的な考えに基づくこうしたネットの利用環境の展開は、しかしながら、実際には、無際限の情報から価値を取り出し利用できる力を既に備えていた人と、主観的にどのように考えているかは別として情報を「消費」している(気になっているだけの)人とのギャップをむしろ大きくする方向に働いていることがますます明らかになっているようです。

これはまあ当たり前と言えば当たり前のことで、例えば、英語に関して他のすべての辞書に入っている情報が全部入っている大辞典を、そしてそれのみを「この辞書には辞書に収録されるべき情報がすべて含まれているので皆さん使って下さい」と言って幼稚園児から専門家にまで提供するならば、幼稚園児や小学生は結局、それぞれの段階で身につけるべきものを身につけられずに終わる恐れがあります。

こう考えると、それなりのまとまりをもった例えば学習者用の辞典は、その辞典に含まれているすべての情報を含む大辞典が存在したとしても、ある学習段階の学習者に対して依然として必要である、ということになります。

では、どのくらいの見出し語数の辞書が必要か。そしてどのように見出し語を選ぶべきか。これは辞書学における最大の未解決問題です(それに対して定義や用例をどのように与えればよいかといった問題に対しては辞書学は長足の進歩を遂げています)。この問題は、図書館の蔵書をどのように整えるか(すべての図書を収録した図書館はかえって使いにくいだけではなく、学習に必要な足場を必ずしも提供しない)、という問題(上で述べたネットですべての情報が手に入ることがかえって格差を広げてしまうことに通じていきます)と同じかたちの問題です。

およそ考えると呼ぶに足るかたちで(「僕、こう思うもん」というのとは別に)ものを考えることを可能にするそもそもの条件というものが存在し、また、学習することなしに生まれたときからそのような条件を有しているわけではないという人間が置かれている状況で、それを身につけるプロセスとそれを身につけることは、少なくともそれをある程度身につけた上で「情報」を利用したりそこから価値を生み出したりすることとはまったく違うことです。

ここまでくると、個々の図書に対応する知識のまとまりを起点として、それよりも小さいあるいは大きい知識のまとまりはどのようなものか、またどのようなものであるべきかという問いが、それに接する人との関係で明示的に表れることになります。

優れた翻訳者は様々な情報を活用して翻訳を行います。しかしながら、優れた翻訳者になるための一つの基本的要件を考えるならば、せいぜい棚延長30メートル程度の、ある種の書物をきちんと読んでいること、といったことになるでしょう(同様に優れた数学者でも、ペタバイトにのぼる書物を読み込んでいるわけではないでしょう。いずれもちょっと嘘がありますが、大筋ではまあそれほどはずれてはいません)。

このように言ったからといって、ビッグデータに対して人間は棚延長30メートル分の本を読んだだけでモノを考えることができるのだからすばらしい、と言った頭の悪い人間賞賛をしたいわけではありません。そうではなく、いずれせよ近代の理念として個人というものの自律を考え、人間というものが(機械より賢かろうが賢くなかろうが)考え意思決定するものとして措定されるならば、単に、人は学習し、およそ人間において考えられるべき基本的な範囲は考えられる力を身につけなくてはいけない、というだけのことです。

そしてそのような問題設定は、世界の中で長い間にわたり引き継がれるものとしての知識を、そして個人において時間をかけて身につけていく知識というものを、その場で処理する情報と対比させるものでもあります(私たちは今でもデカルトが作り出した累乗の記号やライプニッツの微積分記号を使っており、それによって考えることができています)。

5. というわけで

本当に一言で言うと、本研究室で扱っているのは、記号のデカルト的使用とそれを可能にする条件について、ということになります(1629年11月20日付デカルトからメルセンヌへの手紙を手がかりに考えるとよいでしょう)。その枠組みの中で、社会的な組織を考えるならば図書館という組織のお話し従って「図書館系」に、知識のユニットとその編成を重視するならば「情報系」(しかし実はこれまでの説明で中心となっていたのは「知識」であり「情報」ではありませんが)になります。

個別研究については、プロジェクト及びメンバーの研究をご覧下さい。

なお、すでに上の説明から自明とは思いますが、本研究室はいわゆる「マスメディア」を扱う研究室ではありません。